僕が死ぬまでに書き残しておきたいこと

諸行無常、日々ふと思ったこと、後世に残しておきたいことを不定期に綴ります。

怒らないこと

スリランカ上座仏教の長老、アルボムッレ・スマナサーラさんの法話集「怒らないこと」という本を読んだ。

 

人々が怒らなくなれば、世の争い事はなくなるのに・・・・。

 

若い頃は自分もよく怒っていた。子供の頃は学校や家庭への反抗、社会人になっても会社や社会への不満、その殆どは目の前にいる誰かとの間に起こるものだった。両親、友達、先生、上司、同僚、先輩・・・など、多くの人と関わり合いの中で怒りは生まれてきた。その反面、同じくらいに喜びも生まれた。

 

そのプロセスは単純だった。相手が自分の考えと反すれば怒りの感情が込み上げ、共感すれば喜びの感情が沸き上がった。それならば、反感のある人との接触を避け、共感できる人とだけ接していればいいということだ。しかし、世の中で生きていくには、そうそう都合のよい環境を作ることはできないし、まず不可能だ。稀にそういう環境を作っている人はイエスマンしか置かない愚かな権力者くらいなものだ。

 

「怒らないこと」とはどういうことか、裏を返せば「なぜ自分は怒っているのか」を冷静に分析することで見えてくる。しかし、頭に血が昇っている時に冷静な分析などなかなかできない。では、どうすればいいのか。

 

アルボムッレ・スマナサーラさんは「怒りの原因は自我にある」と言っている。「相手に原因があるのではない、喜びも悲しみも、そして怒りも、全ての原因は自分の中にある」つまり、自分の中にあるのだから、自分でコントロールすればいいのである。

 

「自分をコントロールする」簡単なようで難しいと思っていた。四年前までは。

 

自分自身、怒らなくなったなぁ・・と感じたのは、四国の遍路旅をした頃からだった。一人、黙々と歩きながら自我と向かい合う。一日を歩き、眠りに就く前の少しの時間、目を閉じて静かに今日出会った優しい四国の人々を思う。ただその繰り返しの中で、自分が穏やかになっていくのを感じていた。

 

「みなさんのおかげさま」そんな思いが心の真ん中に広がってくると、これまでの恨みつらみもどこかへ消えてなくなってしまう。今も道の途中にお寺を見つけると、宗派も関係なく、ふらりと立ち寄って手を軽く合わせる。ただそれだけで髄分と心が整うものだ。

 

ただし「怒ること」と「叱ること」は違うので、相手の気持ちを汲みながら「優しく叱ること」も必要なのかもしれない。