僕が死ぬまでに書き残しておきたいこと

諸行無常、日々ふと思ったこと、後世に残しておきたいことを不定期に綴ります。

全てうまくいく方法

目の前に現れることは100%全て自分が作り出したものだと聞いた。

親や先生や、学校や会社が作り出したものではなく、生まれた瞬間から一人一人が100%全て自分で作り出してきた世界にいるのだと。

だから、不満や不安も全て自分が作り出している。

他人や社会に原因があるのだと嘆き叫んだところで、他人や社会は何も解決などしてはくれない。

自分で作り出したことは「自分しか解決できない」のである。

言い方を替えれば「全て自分で解決できる」ということになる。

では、どうすればいいのか。

目の前に現れることは、自分が作っているのだから、きっと自分が変われば、目の前に現れることも変わるのだ。

なるほど、その通りだ。

でも、なかなか、そう簡単にうまくはいかない。…と思うと、うまくいかない現実を作り出しているから、うまくいくと思うことから始まるなのかな。…と思う。

なるほど、なるほど、その通りだ。

さらに、うまくいくと思うより、もう一歩進んで、既にうまくいっている…と思えたら、それこそが素晴らしいことなのだ。

なぜなら、その時点で、もう既に全てはうまくいっているのだから。

全ての答えは自分の中にあるということ

悩み多き時代なのかなとも思う。

カウンセラーやアドバイザー、セラピストなど、人の悩みを聴き、助言したり、導いたり、或いは心の病を治療されることを生業とする肩書きの方がとても多くなったように感じている。

同時に整体院やマッサージ店なども街中に増え、心身の癒しやリラクゼーションを求める人々がこんなにもいるものかとも思う。

心の持ち方に占める身体の健康への影響がどれほどかは知り得ないが、放射能などの外的要因を除けば、その多くの病は自分自身でコントロールできるものと感じている。

人が悩みを誰かに相談するとき、当人が相談相手に答えを求めてしまうケースがあったりするが、中には相談相手の出す答えに反発してみたりする。だったら相談なんかするなよ、と言われてしまうパターンである。

なぜそうなるかと言えば、所詮は他人、一見答えのように見えたそれは答えなんかではなく、答えのようなものなのだと、当人も潜在本能的に感じていて、気付いていないだけなのだ。

もっと言えば、もうすでに自分の心の奥に答えがあるということに気付いていないだけなのである。

反発だけではない。相談相手からの答えが納得のいくものである場合も、もうすでに同じ答えが自分の中にあるから素直に受け入れているだけなのだ。

つまり、自分のことは自分自身に聞いてみること、それこそが自分にとって最も適した答え導き出す唯一の方法なのである。

ではどうすれば良いのか。

これという答えも当然ここにはないのだが、僕の心の中にある答えは一つ、ひとり静かに瞼を閉じて、ゆったりと呼吸しながら自分自身と会話をすること。

そう、ただただ、自分の中を深く見つめていくしかない。自分の外側に何かを求めても、何一つ解決などしないことなどは、もう、わかりきっていることなのである。

SNSの功績と罪過

2015年、よくよく考えてみたら、もはやSNSが当たり前の世の中になっている。

電話番号を知らずともIDで簡単に交流でき、テキストに限らず、画像やファイル、音声や動画での交信まで手軽にできるようになるとは、かつて鉄腕アトムを観てワクワクしていた世界が現実に目の前で起きていることに時々驚く。

人と人との交流以外にも、緊急災害情報などもリアルタイムで共有できるツールとして、その功績は大きい。

また、商業利用目的などにも大いに活用され、実際にユーザーにも役立ちつつ、企業の収益にも貢献している。

一方では、その弊害も大きい。SNS特有の爆発的な広がり方の特性を利用した巧妙な犯罪は、便利さの裏返しとも言える宿命なのかもしれない。

成長期から思春期までアナログ時代を過ごしてきた世代として、20代前半に全盛期だったポケベルから、20代後半に普及し始めた携帯電話の創成期、それはまさに時代の転換を想像させるものだった。

当時、思春期の頃に流行っていたものの代表として、交換日記と文通があった。

昨夜書いた日記を放課後に手渡す、翌日の放課後にその日記を受け取る。今で言うLINEだ。

返事が返ってくるまでに24時間を待つ。その間は様々な思いが頭の中を巡り、期待や不安に胸を躍らせていた時期である。

文通となると、さらに間隔が広がる。便箋を封筒に入れて切手を貼り、町かどの郵便ポストまで走る。そして、その返事が返ってくるまでには数日がかかった。足早に学校から帰ると、まず家の郵便受けを覗く。封筒が入っていた時は胸がドキドキしたものだった。

遠く他県の人との文通は一週間単位の会話ともなった。これらの手間と時間が一気に縮まり、今や地球の裏側にいても瞬時に届く世の中である。

これがいいことなのか、どうなのか、自分にはわからない。今、この手の中のスマホを便利に使っているのも事実。

アナログ時代から生きている世代にとってみれば、両方を体験しながら生きてきたので、SNSのこの上ない利便性は否定の余地がないほど優れたツールだということが、本質的に理解できているつもりでいる。

デジタル時代に生まれた世代とは、きっと世の中の見え方は違うのだろうと思いながら、彼ら世代の見え方を想像してあげなければ、それは自分自身の罪過だと考えるようにしている。

SNSの功績は圧倒的に大きいものだと思う。地球のボーダーを取りさらうポテンシャルを秘めている。

SNSの罪過を云々する評論家もいるが、彼らもまた想像力に乏しいのだろう。罪過は自分自身の中にあるだから。

愛おしき人類の営み

電車の窓から流れる景色や街並みを眺めていると、いつも思うことがある。

飛行機から見下ろす街や、山の上から見渡す景色の中でもそう、地球上のありとあらゆる場所に、人類の営みを見ることができる。

新幹線でどこまで走っても、必ずどこかに家や学校や、店や公園や、ガソリンスタンドや工場や、田んぼや畑や、電信柱や信号機がある。

どこまでも、どこまでも、人間が何かを作り、売り、買い、使い、生きている。営みの町が続いている。

何のために?

何のためでもない、ただ生きるために営んでいる。

この目に映るものは、いつか必ず消えてゆく。

人間も、動物も、植物も、いつか必ず消えゆく命であり、ものであろうとも、ひとつたりとも例外なく、家や学校や、店や公園や、ガソリンスタンドや工場や、田んぼや畑や、電信柱や信号機も永遠のものではない。

例え世界遺産であろうとも、地球も、太陽も。

全ては無となる運命と知ってか知らずか、何かを作ろうとし、何かを成し遂げようとし、誰かのために何かをしようとし、自分の夢のためにもがき苦しみながら、人間は懸命に生きている。

なんと愛おしいのだろうか。

地球の寿命は宇宙のスケールの中のほんの一瞬の出来事である。その瞬きの間に人類が生まれ、文明が生まれ、人々が今に生きている。

だから、どんな命も、どんな物も、大切な一瞬の存在なのだと思う。

この愛おしき人類の営みの最期を見届けることなく、いつか我が命も泡の如く消えゆく時が来ると思うが、愛おしき人類の一員として生まれてきたことに感謝しながら、残された人生を、ただただまっすぐに、人間らしく営んでいこうと思う今日この頃である。

ご縁の不思議

考えれば考えるほど、ご縁というものは不思議だ。

今日のご縁は、昨日のご縁の続きで、昨日のご縁は一昨日のご縁の続き。それが途切れることなくずっと続き、とある一日のご縁がなければ、間違いなく今この日のご縁はない。とある一日によって、まるで違うご縁が今ここにあるのである。

その、まるで違うご縁というもの自体が、今まさにここにあるご縁でもあるのだ。

今、目の前にいる人は、ちょっとしたタイミングのご縁で出会えている。つまり、その人と出会えていなかった確率のほうが遥かに高く、出会えたこと自体が奇跡的なことなのだ。

その一日一日を遡ると、生まれたこと自体が奇跡的なことに気付く。

奇跡的な両親のご縁、奇跡的な祖父母のご縁、奇跡的なご先祖様たちのご縁がなければ、今、この命はここになく、今、目の前にいる人の両親、祖父母、ご先祖様のご縁も同じく、奇跡の連鎖が、今、目の前にあるご縁なのである。

それこそ、宇宙スケールの確率の中で出会えたご縁なのだ。

この不思議としか言いようのないご縁の中で、我が命を授けていただいたことに感謝し、一人一人とのご縁を、ただただ、素直に喜び、尊び、敬いながら生きていけたらと思う今日この頃である。

情熱のチカラ

その時、感じたことを、その時に書き留めておけるように、いつもこのブログは掌の中で開いている。

五感を通じて、外から入ってくるものを、どこで受け止めて、どこで処理しているのか、考えている。

見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触る。

特に見ると聞く二つの感覚がもたらす反応は、時に人間を別人へと変えてしまうチカラがあるのかもしれない。

怒りには腹わたが煮えくりかえり、喜びには胸がときめく。難題には頭が痛くなり、緊張には脚が震える。

熱く生きている誰かの姿を垣間見た時、魂から放たれた強い言葉を聞いた時、腹も、胸も、頭も、脚も、全て同時に、グワッと、あるいはドワッと、細胞が震えるような、弾け合うような。

書き物にしようとしていながら、これをどう表現したら良いか、全くと言っていいほどに、その単語を持ち合わせていない現実に、歯痒さを感じずにはいられない。

もっと何か、文学的で情熱的な表現で、この心の様を、流れるように表現できないだろうか。そう思う場面は、これまで幾百も数えてきたような気がする。

だが所詮、星の数ほど言葉を並べたところで、受け取り方は十人十色、百人百通り。だから伝えるチカラは、言葉でも音楽でもパントマイムでも皆同じ、情熱しかないのだということを。

何があっても、情熱だけは失わずにいたい。

何があっても、情熱さえ失わなければ、僕らに乗り越えられない壁はない。

それが、情熱のチカラなのだ。

今は、今しかない、一瞬のもの

きっと、今と、今の一瞬前は違うもの

今と、今の一瞬先も、今とは全く違うもの

千年前の一瞬も、千年先の一瞬も

今とは全く違うもの

つまり、一瞬前と、千年前の一瞬は

今とは違うという、同じもの

一瞬先と、千年先の一瞬は

今とは違うという、同じもの

すなわち、今は、今でしかない

瞬きする間に、今は過ぎる

今は、今しかない、究極の瞬間なのだと

その本質に気が付くと、今すべきことが見えてくる