僕の人生、予定は未定
もし80まで生きたとしたら、あれはああなって、これはこうなって、その時必ず困るから、これはこうしておきましょう。
確かに。よくできている。
生命保険会社のお姉さんがタブレットを斜めにかざし一生懸命に説明してくれる。
そう、30年前に初めて保険に入った時も、保険のおばちゃんが分厚いファイルをめくりながらそんな話をしてくれた。
あれから数十年、保険屋さんが描いてくれた僕の人生設計はどうだったのだろう。
20代、30代、40代、それぞれの年代の人生設計と現実は、やはり大きくかけ離れていた。
40代でサラリーマンを離脱した時点で、もはや設計図はないも同然。
僕の人生、予定は未定、予め定めること、未だ定まることはない。
10代の夢は20代に破れ、20代の夢は30代に散った。
そして、30代の夢は40代に叶えたかに見えたが、そこはまるで違う価値観の世界だった。全身の細胞が全て組み替えられたような感覚に日々戸惑っていた。
そして今、未来の夢は完全にリセットされ、日々新たな夢が現れてはそれを叶え、また明日は明日に現れた夢を明日に叶える。
80まで生きたとしたら?
もうそんなことは微塵も考えない。今日の夢を、今日見つけて、今日それを叶える。
20代で死んだ友がいた。30代で死んだ友がいた。40代で死んだ友がいた。彼らもきっと夢を持っていたに違いない。
僕もいつ死ぬかわからない。
僕の人生、予定は未定。
ただ一心であること
宇宙の果てに思いを寄せて、ただ一心に星を追う
深海の謎に引き込まれて、ただ一心に深い海へ挑む
高い山々に魅せられて、ただ一心に頂上を目指す
小さな微生物に気付いて、ただ一心に顕微鏡を覗く
スピードの先へ行きたくて、ただ一心にクルマを操る
楽器の波動に揺さぶられて、ただ一心に音楽を奏でる
ただ一心に役を演じる、ただ一心に書を描く、
ただ一心にお酒を造る、ただ一心に糸を紡ぐ、
ただ一心に釣糸を流す、ただ一心に魚を捌く、
ただ一心に野菜を作る、ただ一心に鉄を叩く、
ただ一心に蕎麦を打つ、ただ一心に髪を切る、
ただ一心に茶葉を摘む、ただ一心に器を焼く、
ただ一心に何かをすること、ただ一心に情熱をよせること
何をするにも、ただ一心であること、何をしようとも、ただそれだけでいい
大阪都構想投票結果に思う、若年弱者高齢強者社会
全体で僅か0.8ポイント差という結果によって、大阪都構想は大阪市民の民意としてNOと結論付けられた。
まあ、これは選挙でも住民投票でも、また議会においても、誰もが理解しているであろう民主主義の多数決という現象の一つだ。
都構想への反対票は60代70代が多く、50代は半々、そして20代30代40代は賛成票のほうが上回っているのだ。
人口比率から見ると、高齢化著しい近年では、50代以上の人口のほうが圧倒的に多いため、このような結果となったと見る。
都構想の本質は、大阪市民の未来を描いている構想であり、もし可決していたもしても、実際に施行されるまでの準備期間も含め、府と市の二重行政や既得権益の解消など、実際の効果が十分に反映されるまでには5年や10年、いや、既得権の深さによっては20年30年かかるものもあるだろう。
そう、つまり、60代70代の方々にとって、本人自身への影響は年齢が上がる毎に限りなく小さくなるのである。
問題は、これからの大阪を担う20代30代40代の意思なのではないか。彼ら若い世代は未来を変えようとしている。彼らが変えたいと思っていることを、近い未来に確実にこの世を去る世代の人間が邪魔をしてしまって良いのだろうか。
大阪都構想が良いのか悪いのか、ということではなく、未来を生きる人々がどういう社会で生きたいのか、今の政治構造は、それを選択することができない仕組みなのだ、ということを思い知らせた。
私はこれを「若年弱者高齢強者社会」と呼んでいる。
今のままでいいじゃないか、どうせオレらはもうじきあの世さ…、時々大衆浴場のサウナ室で耳にする会話。その場でサウナ室を300度位にしてやりたい気分にもなる。
大人しく育ってしまった若者たち、彼らは、私たち真ん中の50代世代の後輩や子供達だ。だから歯痒くて仕方がない。
大先輩である60代70代の方々には、戦後、日本が貧しい時代から高度成長期を牽引し、今日の日本を築いてくれたことに敬意を表したい。
一方、日本のバブル時代も知らずに、身勝手な我々中高年世代に押さえつけられ、顔色を伺いながらスマートに振る舞う術を身に付けさせてしまった若者たちに申し訳なく思う。
もっと熱く、情熱的な若者たちが立ち上がらなければ、未来の日本は魅力のない、ただの東洋の島国になってしまう。
大先輩から学ぶこと、後輩から学ぶこと
一般に先輩のことは大先輩と呼ぶことがあるが、後輩のことを大後輩とは呼ばない。
人生もグッと後半に入り込み、ふと顔をあげてみると、前を行く大先輩たちの姿はまばらになり、むしろ第一線で活躍するリーダー達は、自分より若い人のほうが多くなってきた。
そんな人達との交流は実に刺激的であり、学ぶことが多い。もちろん言うまでもなく先輩諸兄から学ぶことは多いが、そこは質感だったり、躍動感だったり、感じるエネルギーの色あいが違うのだと思う。
大先輩からの教えの多くは、自分の未来を先輩の経験の中に見ることで、ある意味、羅針盤のような役割を見ることができる。
一方、若い人達を見る時、10代、20代、30代とその年齢に当てはめ、自分がその年代だった頃に何を見て、何を考えて、何をしていたかを脳裏に投影しながら見ることが多い。
そんな時、この若者はもうこんなものをみているのか、もうこんなことを考えているのか、もうこんなことしているのかと感じることがある。
躍動感のある若きリーダー達は本当に素晴らしい。10代だった自分は、20代だった自分は、30代だった僕の姿は先輩方にそう映っていたのだろうか。いや、むしろ「今時の若い者は、、、」と言われていたのかもしれない。
しかし、今、僕が多くの若者と接してきて思うのは「今時の若い者は素晴らしい」ということしかない。
新しい時代を作っている、若くして大きな夢へチャレンジしている、無我夢中で好きなことに没頭している、そんな若者達を僕は大後輩と呼びたい。
命は完全なる姿である
人間には元々、生もなければ、死さえもない。
いや、人間だけではない、宇宙に存在する全ての命には、生も死も何もない。
命というものは誰にも完全なる姿で今ここに存在している。
地球上の命であれば、それは息をすること自体が既に完全な姿なのである。
総理大臣も、路上生活者も、宇宙から見れば全く同じ、息をしている完全なる命の中の一つなのだ。
そう、この両者には、何一つ違うものはない。
生命とは、今この世で息をしていること。
死命とは、今あの世で冥をしていること。
そして、この世からあの世へ、死命もまた、総理大臣も、路上生活者も完全に同じである。
つまり、死命もあの世では、完全なる姿で存在しているのだ。
手と手を合わせる姿は、生命と死命を合わせる儀式。
だから私達は、いつでも、あの世の命と通い合えるのである。
命は完全なる姿である。
先人たちの言葉
半世紀も生きてくると、なんとなく人生ひと通りやった感はある。
若かりし頃から耳にしてきた先人たちの言葉に、時には納得し、時には反発してきた。
今はそれを自分の言葉にして、当時の自分に伝えてあげたい。
先人たちの言葉の多くは、人生の教訓となり、指針となるものだ。
だけど、所詮は先人たち本人の知恵と経験から生まれた言葉。
一番心に響くのは、自分の経験から生まれた自分の言葉、それ以上のものはない。
大事なことは、先人たちの言葉をそのまま聞いて伝えるだけでなく、咀嚼し自分の言葉にして伝えること。
そこで初めて先人たちの言葉が生かされるのだ。
彼らはもうこの世にはいない。
彼らが、もし生きていたとしたら、新たな経験の上に新たな言葉をのせるかもしれない。
その時、きっと彼らも、当時の自分に今の自分の言葉を贈ったに違いない。
さて、半世紀からこの先、我が人生も、まだまだこれからだ。
生きる理由
そんなものはない。
もがき苦しみ、悩み傷つき、打ちのめされて、這いつくばって、その度に何度も生きる理由を見つけようと、旅を続けてわかったこと。
生きることに、理由など存在しない。
ここに命があるから生きる、ただそれだけ。
誰もが同じく、己の命を生きている。それが一年でも、百年でも、ただそこにある命を生きている。
命、それは、簡単に失われるものでもあり、簡単には失われないものでもある。
今、この瞬間に失うかもしれないし、一年後、五年後、あるいは十年後に失うかもしれない。
そう、でもいつか、確実に失うもの。
そんな命を、皆、生きている。
そこに、理由付けなど必要ない。
生きる理由を探そうとすると、失うことへの恐れが生まれ、そこに苦しみが生まれる。
やがて、幸せになりたい、とか、より多くを楽しみたい、とか、富を手に入れたい、とか、生きる喜びを求め始める。
その欲求がいつしか、生きる目的となり、執着し、無用なものを奪い合い、知らぬ間に他人を傷つけてゆく。
生きる理由を探すのはやめよう。
何も求めず、何も恐れず、今あるものを感じ、今息をしている奇跡を感じ、慈しみ、優しくこの命を見つめて生きてみよう。
そこには、何一つ理由はいらない。