僕が死ぬまでに書き残しておきたいこと

諸行無常、日々ふと思ったこと、後世に残しておきたいことを不定期に綴ります。

政党支持率から見た安保法案採決に感じること

ここ数ヶ月の安保法案に関するゴタゴタを見ていて、どうも民主党には違和感を覚えて仕方がない。

民主党政権当時は森本防衛大臣と共に日本の安全保障の問題点を認識し、集団的自衛権容認の立場に立っていたはずだ。

それが今や共産党と肩を並べて国会前のデモにまで参加し、国会内ではまるで反対派野党を束ねるリーダー政党のような振る舞い。

反対デモ参加者は73.5%が野党支持者だったという調査結果が出たが、内訳は共産41.1%、社民14.7%、民主11.7%、生活5.8%と、ここでさえも民主党の存在感はない。

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反対派野党の真のリーダーは一貫して反対を唱え続けている共産党ではないだろうか。有権者は本気で廃案にしたいなら支持率1.2%の共産党に票を入れるべきである。

しかし一方、参議院は与党に加えた野党3党の5党で賛成可決としているが、政党支持率の5党合計でも26.8%しかない。反対に至っては残りの野党5党を合わせてもわずか8.3%だ。

世論全体から見れば、明らかに少数派の政党10党が議席を分け合い国会を運営している。政党政治と国民の意識があまりに乖離し過ぎてはいまいか。

自分自身は支持政党を持っている。選挙の都度、支持する政党が勝っても負けても、選ばれた政権の示す方向に従う覚悟で1票を投じている。それが有権者としての責任であると考えている。

汚ない言葉や暴力的な言葉で罵り合う反対派賛成派の姿を見ると悲しくて仕方がない。お互いの権利や立場を尊重し合いながら、大人の言葉で話し合えないのだろうか。

そんな人間が、世界平和は話し合いで!と訴えたところで何の説得力も感じない。

前回衆院選で支持を得たからいいだろうと胸を張る支持率23.3%程度の自民党もどうかと思うが、公約になかったなどと騒ぎ立てる野党やデモの方々もどうかと思う。

政党には綱領があり、安保法制は自民党政策の柱であることはずっと以前から示されている。

綱領のない民主党こそ、どう支持していいか私にはわからない。民主党が政権を取った2009年当時の国民の気持ちも理解出来なかった。

何かその時々の雰囲気や、意図的な策略の下に騒ぎ立てられた罠や感情に踊らされてはいないか、今一度自問してほしい。誰かに手渡されたプラカードに書かれた言葉は自分自身の内面にある言葉なのか。

責任ある有権者の一人として、しっかりとした情報を自ら集め、自らの頭で考え、冷静に行動することこそが良い政治を作る源となる。

政治に責任を押し付けるのは、自らが責任を放棄していることと同じであり、とても恥ずべきことだと気付かなければならない。

今の体たらくな政治を作ったのは、国民以外の何者でもない。何故皆他人事のように政治家を責め立てるだろう。私は今回の国会審議を見ながら自ら反省している。

もっと政治を、歴史を、世界情勢を勉強し、今以上に人の話を謙虚に聴く姿勢を身に付けようという考えが強まっている。

いずれにしても、今国会を通った安保法案は、有権者が投じた票の結果であり、どこに投じようと自分自身の1票も含まれている。

どんな結果になろうと、常に前向きに捉え、これから一つ一つの事案に対する政府の行動をもっとしっかりと見つめて行こうと、今回の安保法案騒動を見ていて、あらためて強く感じた次第である。

現場

機関銃を積んだ某国の船が自国の領海内に押し入り威嚇してくる海上で漁を営む現場。

出航する漁船を漁港に立って見送りながら、船員や船員の家族の気持ちを想像したことがありますか?

軍事基地もない遠く離れた南の島で赤珊瑚を堂々と密漁する大船団に怯えながら地元警察官だけに頼る日々の現場。

本土から1000kmも離れた南の島へ降り立ち、沖に浮かぶ何十隻もの密漁船の不気味な姿を想像したことがありますか?

目の前に見える祖先の墓のある領土に足を踏み入れることも出来ずに亡くなってゆく元島民の住む現場。

岬に立つと、手の届きそうな所に見えるかつての故郷に行きたくても行けず、ただ佇んでいる老女の哀しげな横顔を想像したありますか?

最愛の我が子を海の向こうの誰かに連れ去られたまま数十年も助け出すことが出来ず待ち続ける現場。

日本海の砂浜に立ち、ある日突然家に帰って来なくなった最愛の娘を思い続けている年老いた夫婦の姿を想像したことがありますか?

祖先が守ってきた大切な土地や財産を悪意を持った他国の富豪たちに買い占められ占領され続けている現場。

様々な現場がある。

誰の子供も殺させない、小さな子供だけが子供ではない、あなたも私も誰かの子供、人々の思いは同じだと思う。

自国の領土も自国民の命も守れていない現実が事実として現場にある。いつまでこんな国のままでいいのか?

敗戦後、米国主導の中途半端な思想を植え付けられたまま、今に至っている現実が今の現場に映されている。

これは現実主義ではない。揺るぎない事実が見える現場主義なのである。

「シールズ」と「ママの会」に思う

BSフジのプライムニュースに「シールズ」と「ママの会」が出演し、自民党(武見さん)と議論を交わした。

正直、デモ活動のイメージしかなかった彼ら(彼女ら)のことが少し理解できた気がする。

印象としては、やや勉強不足の一面も感じられたが、ただ与党に反対しているだけの大半の野党に比べれば、彼らの意識のほうが遥かに高いように思う。

これからは与党と彼らとが向き合って、きちんと話し合う場を持ち、建設的な議論を交わしていくことができれば、将来の日本にとって大きなプラスになるのではないだろうか。

安保法案に関する武見さんの説明は、これまで何度も見聞きしている内容として理解する一方で、きちんと彼らに耳を傾ければ「シールズ」や「ママの会」の考え方も理解できる。

安保法制というものは、今国会で法案が通ったからといってそれで終わるのではなく、日本国が国際社会の中の主権国家として存続する限り、検証し続けていかなければならないものである。

その延長線上の未来に「だれの子どもも殺させない」そんな地球にしていきたいという「ママの会」のスローガンには賛同したい。

動画1(前編)

動画2(後編)

100kmを走るということ

先日、某24時間テレビという番組で、ロックミュージシャンのDAIGO氏が100kmマラソンを走っていた。

番組自体はきちんと観たことはないのだが、毎年、誰かがこの100kmマラソンにチャレンジしていることは知っている。

以前にチャレンジされた人などは途中で車を使ったとか、そんな話題も耳にするが、きっと本人が走ったと言えば走ったのだろうし、もしかしたらやむを得ぬ理由で何キロか乗ったかもしれない。

しかし、そんなことはどうでもいい。

100kmを走ることはもちろん、90kmでも、80kmでもいい、そこにチャレンジしたという、もはやDAIGO氏の存在そのものが偉大且つ尊敬に値する。そう、チャレンジしたそのこと自体が凄いことだ。

自身もかつて東京から小田原まで、93kmを通しで歩いたことがある。

その経験があるからこそ、DAIGO氏のチャレンジの凄さがわかるのだ。やったことのない人ほど、他人のアラを探して騒ぎ立てるものだ。

やったことのある人には、やったことのない人が、決して見ることのできない景色が見えている。だから語らずも深いところで共感もできる。

同じように、例えば四国遍路を歩いたことがないのに、本やネットだけの知識を借りて、まるで行ったことがあるかのように語る人がいるが、毎日35kmを37日間歩き続けなければ見えない世界があることにまるで気付いていない。

今回、24時間100kmマラソンにチャレンジしたDAIGO氏に、心から拍手を贈りたい。

楽な道と茨の道

大峯千日回峰行という修行がある。いわゆる千日修行。1300年の歴史で、未だ2人しか成し遂げていないという、我々の想像を遥かに超える修行だ。

以前、四国八十八霊場1300kmを37日間で通し打ちしたことがあるが、千日修行は48000kmの山道を1000日間、しかもおにぎり2個と水500mlのみで毎日48km•••、無論、雨の日も、風の日も•••

この千日修行を成し遂げた僧侶の目に見えている世界は、おそらく今生きている人間の中で唯一無二の世界が広がっていることだろう。

もちろん、一流のスポーツ選手や修行を重ねた職人など、どの世界にも何かを成し遂げた先には、其々その人にしか見えない世界がある。

それらは簡単に比べられるものではないが、間違いなく言えることは、現状に流され、変化を恐れて、ただなんとなく日々を生きている人間とは、比べものにならない世界が見えているのである。

目の前に楽な道と茨の道があるとしたら、多くの人は楽な道を選ぶだろう。

茨の道を選び続けてきた先には未開の美しい草原が広がり、楽な道を選び続けた先には塵と屍の山が広がっているのかもしれない。

少しでもその草原に近付けるとしたら、日常にある選択肢の小さな茨のほうを選んで進み続けることだ。

この先、僕の人生もそう長くはないが、これからの日常の中で小さな茨を選び続けていこうと思っている。

自殺ってなんだろう

最近、身近で未遂のようなことがあった。

とても胸の痛む出来事だったが、ただ、馬鹿な事はやめろ、と言うだけ野暮な気がして、この胸の痛みは何なのか?思慮を重ねて考えてみた。

無論、答えなんてないと、わかっちゃいるが。

まだ20代だという。

自身の20代を思い返してみると、仕事も遊びも全力だったような、生きていることが死ぬほど楽しかったことを思い出す。

社会人として様々な局面を体験し、自分が大人なのか、まだ子供なのか、思うままに突き進んでいたような気がする。

30代も、40代も。

そして今、いずれ時期が来れば逝くだろう、そう思いながら、その時が来るまで生きていようと思っている。

これまで、自らの命を絶つ、なんてことは1ミリも考えた記憶がない。だから、自殺ってなんだかわからない。

僕の辞書には自殺という言葉がない。

深慮したところで、行き着くところは、ただ、それだけのことだったが、もし貸せるものなら、薄っぺらな僕のこの辞書を貸してあげたい。

右も左も

ここ数年の傾向として感じているのが、国民の考え方が右寄りと左寄りに大きく分かれつつあるということである。

しかも、今は広く自由に意見を発信できるネット環境が整っているため、老若男女あらゆる立場の人が自分の考えを発信している。

それも一昔前、新聞の読書投稿欄や、青年の主張的な講演の場ぐらいしか一般市民の意見を聞くことがなかったことを考えると、素晴らしき文明の発展とも取れる。

しかし、なんだろう、SNSの特質なのか、なんとも言えない違和感を覚えることが一つ。

誰かが発した意見に対して、そこに集まるコメントはほぼ同意の意見に偏っているということである。

そう、右寄りの投稿には右寄りのコメントが集まり、左寄りの投稿には左寄りのコメントが集まる。そして、それが別々に盛り上がっている。

叩かれる、とか、炎上する、とか、そういう現象が簡単に起きてしまうことに躊躇し、反対意見をコメントする人が少ないのだろうとも思う。

実際に反対意見をコメントした人が、その中でボコボコにされている様子を見ることもある。

最近では、ネットだけでなく、リアルなテレビ番組「朝まで生テレビ」での与党議員全員出演辞退という現象まで起きている。

番組の空気自体が司会者を含め与党反対の流れだったことが、一つの原因となったであろうことは誰の目にも明らかだ。

大きく右と左に分かれつつある世論が、なんとなく、交わる橋さえなくなってきているのかな、と思うと虚しくなってくる。

僕の場合、おまえはどっちなんだ!って聞かれたら、どっちでもねーよバカヤロー!と言うだろう。

元々この世には、正義なんて存在しないし、何が正しくて、何が間違いかなんて、未完成な人間ごときにわかるわけがない。

どちらも互いの意見を謙虚に受け止め、先に相手を理解をさせようと思うのではなく、まずは相手を理解してあげようと思うことから始まるのだと思う。

綺麗事かもしれないが、今の状況を見ていると、唯一、右と左に偏った見方を近付ける方法はそれしかない。

明らかなことは一つ、極端な右寄りか、もしくは極端な左寄りで突っ走った時、間違いなくその国は滅びている。

日本が世界で最も長く続いてきた国であること、また、強かった他国や文明が何度も何度も滅びてきたこと、まさにそれは歴史が証明している。我々のヒントは全てそこにあると思う。